書籍・雑誌

「他力」五木寛之より

「これまで、笑いとかユーモアは高級であり、涙とか泣くということは、封建的で前近代的なものだといわれてきました。(中略)いまはテレビやステージをひっくるめて、笑いの全盛時代ですが、日本人は、本当に悲しむということを失い、涙をばかにするようになってからだめになったのかもしれない、と思います。(中略)私たちは、自分たちの「いまある姿」、そして「あるがままの心」に目を背けることをやめ、それを認めるときにきているのではないか。(中略)根本にあるのは、ひとりぼっちだという疎外感です。この疎外感を増長させているのが、涙を切って捨てる近代主義ではないでしょうか。」

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これは随分前に書かれた五木寛之さんの記述です。しかし、現代でもその提言は色褪せるどころか、さらにその内容を色濃くしているように思えます。この中で英語の歌が多いのは、現実から少しはなれたところで歌を聴いていたいという心理からではないか、とおっしゃっています。あまりにも身につまされる曲は、不安を掻き立て、ちょっとした寂しい風に頬をなでられたような気になります。しかし、それが本来の人間のあるべき姿であり、ロボットでも、コンピューターでもない血の通った動物であることの証拠です。そこから目を背けず、まただからこそ、お互いがお互いの不安や悩みを共有でき、助け合えるというものではないでしょうか。私たちは人間でないものに喜びを感じ、それを進歩としています。それは一方では、正しいのでしょう。、しかし反対側にある人間的なものを忘れては、進歩とばかりはいってられないでしょう。

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「詩の原理」萩原朔太郎著

「即ち真に感情で書いたところの、実の本物の詩にあっては、言語が概念として使用されず、主観的なる気分や情調の中に融けて、それ自ら「感情の意味」を語っているところである。これに反して似而非の詩は、言語が没情感なる概念として、純に「知性の意味」で使用されている。」 (萩原朔太郎)

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私たちがふだん使用している言語は、何かを伝えるために発します。萩原朔太郎は、本物の詩にあっては、言語は概念として使用されないといいます。つまり、珈琲店(カフェ)という言葉を聞いたとき、本来は、AさんBさんそれぞれの店のイメージが浮かびます。しかし、概念としては、コーヒーを飲み軽食を食べながらちょっと休憩できる店くらいでしょうか。しかし、このAさんBさんでは違うはずのカフェを表現しなければならないのです。さらに、そのときの感情も加える必要があります。それが、主観的なる気分や情調の中に融けて、ということでしょう。萩原朔太郎は、カフェを次のような詩にしています。

閑雅なる食欲  *珈琲店はカフェと呼んでください。

松林の中を歩いて

あかるい気分の珈琲店をみた。

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店である。

をとめは恋恋の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほふくを取って

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲が浮かんで。

たいさう閑雅な食慾である。

詩中ではもはや、ただ軽食を出して休憩するだけのカフェではありませんね。言葉の組み合わせといっては、味気ないですが、このパズルによって、詩中の感情が伝わるとは思いませんか?

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「人間について」ボーヴォワール

「人間の条件は、与えられたものをことごとく追い越すことです。人間の充実性が達せられるや、たちまち、それは過去の中に転落してしまいます。(中略)彼は一つの目的を欲しています。ほかのどんな目的も排して、その目的を欲しています。しかし、彼はその目的に立ち止まるために欲するのではなくて、それを楽しむために欲するのです。」(ボーヴォワール)

06765765 オリンピックが終わりました。成果が出た選手、そうでない選手いるでしょう。あらゆる努力を払い金メダルを獲得したとき、つまり目的に達したとき、選手たちの充実感は、言葉に表せるものではないでしょう。しかし、人間の充実性が達せられるや、たちまち過去になると、女史はいいます。また、彼の目的は、その目的に立ち止まるためではない、ともいいます。たしかに、人は苦労して山に登ったあと、違う山を探す。目的を達するために苦労を重ね、いざそれを掴んでみると、掴んだ瞬間に何でもない気になったりします。振り返ると、確かに、高く上っている。しかし、今立っている場所は、やはり平らな地面に変わりはない、という何事も平凡に変えてしまう忘れっぽい感覚。この感覚によって、人間は不幸だとも言え、だからこそ幸福だとも言えるとは思いませんか。

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「シュルレアリスム宣言」アンドレ・ブルトン

「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動化現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。」(アンドレ・ブルトン)

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近頃でもよく、あなたの言うことはシュールだね。などと使います。だいたい、言いたいことが理解できないときに、そう言います。上記からも分かるように、理性によって統制されない思考ですから、その言葉を発した者の思考、感性です。まさに理屈付けられない表現ですね。作品から何かを感じ取れたなら、それがすべてなわけです。それ以上でも以下でもない。芸術の良さは、感性の交信とでもいいましょうか、そこに全て集約されている気がします。

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「現代の批判」 キルケゴール

「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃え上がっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。(中略)個人も世代も、たえず思い思いの方向に向かって進み、お互いに角つきあわせて妨害しあっている。それだから、告発者たろうとする者が、なんらかの事実を確証しようと思っても、不可能なことだろう。事実など何もないからである。兆候だけならありあまるほどあるので、その兆候を見ていると、なにか異常なことがすでに起こっているか、あるいはいまにも起こるだろうと、推論せずにはいられないであろう。けれどもそう推論するのは間違いだろう。それらの兆候こそ実は現代が精いっぱいの力を発揮した、たったひとつの結果にほかならないからである。(中略)こうして現代は、本性の知れぬ骨折りに疲れはてて、しばし完全な無感動の状態に落ち着いてしまう。(中略)惰性、これが現代の逃げ口上の根底にあるものであって、情熱をもたない現代のだれもが、自分こそその最初の発明者だと自画自賛し、こうしてますます利口になるわけだ。革命の時代には武器が無料で配布されたし、十字軍の時代には従軍の徽章が公然と授けられたものだが、現代ではいたるところで、処世宝典とか諸事便覧とかの類が無料でサービスされる。大事件が起こるのを絶えず阻止しておきながら、そのくせまるで大事件がおこりつつあるかのように絶えず見せかけておくという風にしてときを稼ぐということが、・・・・(後略)」(キルケゴール)

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19世紀中頃に書かれた、評論ですが、まるで現代の日本について書かれているようにさえ思えます。上記にある大事件とは、近頃起こる三面記事的事件ではなく、政治的革命であるようです。このような事件は、情熱を要すものであるが、現代にはこのような情熱はなく、ただ、もっともらしい兆候だけがあるといいます。

大変だ、大変だ、マスコミ等で聞くけれどもその具体的なところは分からぬままに漠然と私たちは常に大変なように思っています。では具体的に何が?といいますと、はて?物価が上がるからでしょうか?教育水準が下がっているからでしょうか?税金が保険料が高いからでしょうか?物質的な現象が改善されたら、はたして、大変ではなくなるのでしょうか?本質は、私たちの「行動しないでいたのがやっぱりいちばん賢明なのだ」という現代の無感動の中に、知らぬ間におさめられ、惰性で生かされて、没個性にさせられているところに、問題があるようにも思えます。

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「茶道名言集」井口海仙

「茶道は、日常生活の俗事の中に、美しきものを崇拝するに基く一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序の浪漫主義を、諄々と教えるものである。茶道の容義は、不完全なるものを崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可能なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。」(岡倉天心)

31116220 不完全なるものを崇拝する、とは奥が深く味わい深いですね。私たちは、大体において、完全を求めています。そして、失敗に失望します。しかし、人生は不可能に満ちています。所詮、人が完全であるはずはないのです。だからこそ、むしろ、いとおしく美しく素晴らしいのではないでしょうか。その不完全を知り、その中で成就するよう努める。その企ての一宇宙とでもいうべきものが茶の湯だというのです。

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「海舟座談」巌本善治編より

誰が先生に信ぜられたか、何事が先生に重んぜられたかと言うに、多分、何人といえども、先生に信ぜられたものはなく、また、何事も先生に面白がられたことはあるまい。いかなる人が来ても、親切に話して、それぞれ世話をされる。いかなる仕事でも、相応の助力をされる。一合枡は一合、一升枡は一升枡相応に、それぞれ一杯の熱血を入れられて帰るから、何人でも、先生に信ぜられたと思い、その仕事が賛成されていると思ったであろう。(中略)海舟先生自己の関係は、よほど、世人の想像と違っている。ますいかなる人物をも棄てらるることはなかったが、また何人にも信任されるということはなかったという方が、事実に近いかと思っている。(海舟座談)

Kaishu

人間関係の距離というのは、とても難しいものです。どっぷり信用すると、ちょっとでも食い違えば裏切られた気になる。かといって、まったく信用しなければ、仕事がうまく運ばない。結局、拠り所はあくまで、自分であることなんでしょう。そうすれば、裏切るとか裏切らないとかないですものね。その要諦が上記なのでしょう。つまり海舟先生は、誰も心からは信じず、あくまでご自分を信じていたような気がします。それは、身勝手と異なり、風車の芯という感じではないでしょうか。周りは勝手に回るが、自分は動じない。いつも同じである。そこに、泰然とした客観的な評価が生まれる。そう思います。そうなるためには、まだまだ修行が足りませんね。

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「禅の言葉」より

「他は是れ吾にあらず」 

Dogen

自分のための修行は自分でやらないと無意味だという意味で、道元禅師の会話からだそうです。たしかに、他人にやってもらえば、教えてもらえば、任せておけば楽だし、簡単ですが、それでは自分は何も成長しませんね。その他人がいつも傍にいてくれるならば、それでも構いませんが、人間は一人で生まれ一人で死んでいく、それは紛れもない事実です。しかし、人は一人では生きていけない。この矛盾に気付きつつ、自分の努力は惜しまないことでしょうか。すべては二律背反で構成され、考えれば考えるほどどこに向かって行こうとしているのか迷ってしまいます。

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「留魂録」吉田松陰より

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも

            留置かまし大和魂」 (吉田松陰)

Syouin

明治維新に活躍した長州の若者を育成した吉田松陰の激烈な句ですね。留魂録の中で、彼は、「吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以って云えば、是れ亦秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん」と言っています。つまり、人の寿命には定まりがなく、三十で亡くなる人には、三十の四季があるから、まだ早いということではなく、その歳なりの花と実が備わっていると言います。これは生死への執着を度外視したところに、何事かを成すという志の実現がある、ということでしょう。いま存在する世の中が変わる、それは巨大な山を動かす如く、ただならぬ覚悟を要することなんでしょうね。

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「日本語の年輪」大野晋より

「なまめかしい」

「『なま』という言葉は、(中略)その状態や動作が、未熟である。まだ何となくいい加減である、はっきりしないということを表わす言葉であった。」

「『めかし』というのは、『・・・・らしい』とか、『・・・・のように見える』という意味で、これは、『物がそのもの本来の様子に見える』ということと、『ほんものではないがほんもののように見える』ということの、二つの意味を持っている。」

「この『なま』と『めかし』が結合して『なまめかし』が作られた。だから『なまめかし』は、そのもともとの意味をいえば、未熟めいている、未熟らしいのである。その実は決して未熟ではなく、心しらいにおいても、表現においても、実現された美しさにおいても、十分の心づかいがされているが、しかも未熟のように見える。さりげなく、何でもないように見える。それが『なまめかし』であった。」

「『源氏物語』で、男と女とが『なまめきかはす』と書いてある。これもその起源をいえば、大いに気持ちがありながら、何でもないようにお互いにやりとりを重ねるという意味である。そして、そのお互いの気持ちは、決して何でもないことではないと、見ている者には十分によく見える。このとき、『なまめきかはす』という表現が使われた」

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  言葉は、随分変化しているのだと、感じさせられますね。現在、なまめかしいといえば、ちょっと色っぽい世界を想起させますけれど、当時は、「何でもないようでいて、しかも人をひきつける見事さのあるもの」だったそうです。思い切って例えるなら、今の使い方が西洋的で、昔の使い方が日本的とでもいえませんかね。

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