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2008年2月

「禅の言葉」より

「他は是れ吾にあらず」 

Dogen

自分のための修行は自分でやらないと無意味だという意味で、道元禅師の会話からだそうです。たしかに、他人にやってもらえば、教えてもらえば、任せておけば楽だし、簡単ですが、それでは自分は何も成長しませんね。その他人がいつも傍にいてくれるならば、それでも構いませんが、人間は一人で生まれ一人で死んでいく、それは紛れもない事実です。しかし、人は一人では生きていけない。この矛盾に気付きつつ、自分の努力は惜しまないことでしょうか。すべては二律背反で構成され、考えれば考えるほどどこに向かって行こうとしているのか迷ってしまいます。

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「留魂録」吉田松陰より

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも

            留置かまし大和魂」 (吉田松陰)

Syouin

明治維新に活躍した長州の若者を育成した吉田松陰の激烈な句ですね。留魂録の中で、彼は、「吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以って云えば、是れ亦秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん」と言っています。つまり、人の寿命には定まりがなく、三十で亡くなる人には、三十の四季があるから、まだ早いということではなく、その歳なりの花と実が備わっていると言います。これは生死への執着を度外視したところに、何事かを成すという志の実現がある、ということでしょう。いま存在する世の中が変わる、それは巨大な山を動かす如く、ただならぬ覚悟を要することなんでしょうね。

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「日本語の年輪」大野晋より

「なまめかしい」

「『なま』という言葉は、(中略)その状態や動作が、未熟である。まだ何となくいい加減である、はっきりしないということを表わす言葉であった。」

「『めかし』というのは、『・・・・らしい』とか、『・・・・のように見える』という意味で、これは、『物がそのもの本来の様子に見える』ということと、『ほんものではないがほんもののように見える』ということの、二つの意味を持っている。」

「この『なま』と『めかし』が結合して『なまめかし』が作られた。だから『なまめかし』は、そのもともとの意味をいえば、未熟めいている、未熟らしいのである。その実は決して未熟ではなく、心しらいにおいても、表現においても、実現された美しさにおいても、十分の心づかいがされているが、しかも未熟のように見える。さりげなく、何でもないように見える。それが『なまめかし』であった。」

「『源氏物語』で、男と女とが『なまめきかはす』と書いてある。これもその起源をいえば、大いに気持ちがありながら、何でもないようにお互いにやりとりを重ねるという意味である。そして、そのお互いの気持ちは、決して何でもないことではないと、見ている者には十分によく見える。このとき、『なまめきかはす』という表現が使われた」

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  言葉は、随分変化しているのだと、感じさせられますね。現在、なまめかしいといえば、ちょっと色っぽい世界を想起させますけれど、当時は、「何でもないようでいて、しかも人をひきつける見事さのあるもの」だったそうです。思い切って例えるなら、今の使い方が西洋的で、昔の使い方が日本的とでもいえませんかね。

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