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「法然と親鸞の信仰」(下) 倉田百三より

「煩悩なくして涅槃をえようとするのは、水の抵抗なくして、水を泳ごうとし、泥なくして蓮を得ようとするような無理である。衆生の煩悩なくば、弥陀の誓願もなく、したがって西方の浄土もない。煩悩をなくして、西方の浄土に参りたいというのは、性欲をなくして、子供を産ませたいと願うようなものである。それは不可能であるばかりでなく、気のない話である。この地上の匂い、娑婆気のないという事は、浄土真宗の信仰にとっては筋ちがいであって、浄土真宗の信仰は此土の穢汚を悲しみつつも、われわれの生命を地上に引き、浄土の清きにあこがれながらも、この世界に愛着の断ち切れない心に成立するのである。それが人間らしい心と言い得るならば、浄土真宗の信仰は人間らしい心に結実するのものである。」 (倉田百三)

Photo 私たちは、とかく自分は罪深いのだと、自分を責めたりします。しかし、罪深いのが人間であり、そのことがむしろ人間らしく、そのままで、救われるのが浄土真宗の信仰と倉田百三氏は言います。しかし、その罪とはどのようなものでしょうか。刑法で裁かれる罪が、すなわち、倉田氏のいう罪でしょうか。さらに、親鸞の言葉として続けます。

「親鸞にとってはどんな小さな罪もなお罪の自覚であり、それは地獄に価するものであった。潔癖症を直すには汚物に指を突っ込んでも耐えられるように鍛えるより外ないように、親鸞にとっては罪業感の中に沈没してしまうより遁れ道はなかった。」 つまり、私たちが思うような重大な罪ではなくても、親鸞にとっては罪なわけです。見知らぬ人が困っていた。ほとんどの人は素通りしても、当然と思いますね。知らない人なんですから。しかし、親鸞には、罪悪感が芽生えるんじゃないでしょうか。助けたくても助けられない、その罪悪感。あらゆる場面で、悩むとき、次のような信仰が生まれるのです「それが恐ろしくないようになりたければこそ弥陀の本願を信じるのだ。」と。信仰とは、強烈な自己反省から生じるのでしょうね。弱みにつけこむような宗教を信じるようでは、自己反省が足りません。

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