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2008年1月

「夏の花」原民喜より

「そして、赤むけの膨れ上がった屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのあった。苦悶の一瞬足掻いて硬直したらしい肢体は一種の妖しいリズムを含んでいる。電線の乱れ落ちた線や、おびただしい破片で、虚無の中に痙攣的の図案が感じられる。」    (原民喜)

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これは広島原爆の惨状を描写したくだりです。あまりの熱に人々が、苦悶したまま硬直した、その辺りの状況が生々しく伝わってきます。・・・・・・。戦争は誰が、何のために、為さなければならないのでしょうか。この小説のなかで、「兵隊になられたら。馬鹿になりなさいよ、ものを考えてはいけませんよ」と息子にいいきかすようにいいだした。という一節があります。戦争を端的に定義付けている気がします。

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「様々なる意匠」小林秀雄より

「芸術家達のどんなに純粋な仕事でも、科学者が純粋な水と呼ぶ意味で純粋なものはない。彼等の仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豊富である。この豊富性の為に、私は、彼等の作品から思うところを抽象することができる、と言う事は又何を抽象しても何物かが残るという事だ。この豊富性の裡を彷徨して、私は、その作家の思想を完全に了解したと信ずる。その途端、不思議な角度から、新しい思想の断片が私を見る。見られたが最後、断片はもはや断片ではない、忽ち拡大して、今了解した私の思想を呑んで了うという事が起る。」 (小林秀雄)

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優れた芸術作品を批評するとき、批評家もそれを読む読者も、批評家によって表現された内容が、さも真実であるかのように感じます。しかし、それはあくまでも作品の断片であると小林氏は言います。優れた作品であればあるほど、新しい断片が現れそれが拡大して、もはや断片とは言えないほど膨らむ。ですから、批評には芸術作品を捉えて、しかし捉えきれないもどかしさがあるのでしょうね。それを理解しながら読者も読むべきですね

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「創作の現場から」渡辺淳一より

「小説というのは、こうした、いわくいい難い理外の理を書くことであって、それがまさしくリアリティで、知性とか論理を書くのが小説ではないのです。

 そのいわくいい難い人間の情念や行動を、たしかなディーテールの積み上げでリアリティを生み出したときに、いい小説が生まれてくる。」 (渡辺淳一)

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文学と言われるものは、あまりご丁寧だと、作家の創った道の上を逸れることなく歩かされるようで、つまらないですね。そこのところを渡辺氏はおっしゃってるんでしょう。ある人が会釈する。相手は不機嫌になった。これに直接的な説明は不要だと思います。何故かを、感じ味わうのが文学のように思います。タネが分からないから、手品は面白い。ただ、その行間にリアリティをいかに生み出すか。そこが作家の力量なんでしょうね。

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「法然と親鸞の信仰」(下) 倉田百三より

「煩悩なくして涅槃をえようとするのは、水の抵抗なくして、水を泳ごうとし、泥なくして蓮を得ようとするような無理である。衆生の煩悩なくば、弥陀の誓願もなく、したがって西方の浄土もない。煩悩をなくして、西方の浄土に参りたいというのは、性欲をなくして、子供を産ませたいと願うようなものである。それは不可能であるばかりでなく、気のない話である。この地上の匂い、娑婆気のないという事は、浄土真宗の信仰にとっては筋ちがいであって、浄土真宗の信仰は此土の穢汚を悲しみつつも、われわれの生命を地上に引き、浄土の清きにあこがれながらも、この世界に愛着の断ち切れない心に成立するのである。それが人間らしい心と言い得るならば、浄土真宗の信仰は人間らしい心に結実するのものである。」 (倉田百三)

Photo 私たちは、とかく自分は罪深いのだと、自分を責めたりします。しかし、罪深いのが人間であり、そのことがむしろ人間らしく、そのままで、救われるのが浄土真宗の信仰と倉田百三氏は言います。しかし、その罪とはどのようなものでしょうか。刑法で裁かれる罪が、すなわち、倉田氏のいう罪でしょうか。さらに、親鸞の言葉として続けます。

「親鸞にとってはどんな小さな罪もなお罪の自覚であり、それは地獄に価するものであった。潔癖症を直すには汚物に指を突っ込んでも耐えられるように鍛えるより外ないように、親鸞にとっては罪業感の中に沈没してしまうより遁れ道はなかった。」 つまり、私たちが思うような重大な罪ではなくても、親鸞にとっては罪なわけです。見知らぬ人が困っていた。ほとんどの人は素通りしても、当然と思いますね。知らない人なんですから。しかし、親鸞には、罪悪感が芽生えるんじゃないでしょうか。助けたくても助けられない、その罪悪感。あらゆる場面で、悩むとき、次のような信仰が生まれるのです「それが恐ろしくないようになりたければこそ弥陀の本願を信じるのだ。」と。信仰とは、強烈な自己反省から生じるのでしょうね。弱みにつけこむような宗教を信じるようでは、自己反省が足りません。

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サリンジャーの言葉「アメリカン・ポップ・フレーズ」より

「プライドを捨てたというプライドを少しも匂わせないような告白文など、おそらく一つもなかった」 (サリンジャー)

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日記や手紙など他の文章よりもより個人的なものは、露骨な表現があっても不思議ではないんですが、やはり第三者の目を意識していることがあります。それはやはり文章は、自分の死後も誰かの目に触れることを意識しているからなのでしょうかね。上記サリンジャーの言葉は、プライドを捨てたといって書かれた告白文でも、やはり作家のプライドが顔を覗かせている、という皮肉な内容ですね。人間は誇りによって自分を保っていることも多々ありますから、これは致し方ないことなのでしょうね。

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「日本の智慧」亀井勝一郎より

「雰囲気とかニュアンスを楽しむという傾向は少なくなってきたのではなかろうか。同じことは娯楽についても言える。それが刺戟的でスピードがあってどぎつくなったため、却って娯楽感覚が麻痺してきているのではなかろうか。これだけ娯楽が発達して、人は却ってほんとうの楽しみを失っているのではないかという疑いを私は抱く。楽しそうな外観を呈しながら、却って深い不安におびえているようにさえみえることがある。とくに大都会ではそうだ。つまり疲れているのだ。疲労の深さは刺戟を求めるものである。より強い刺戟によって疲労を麻痺させるわけだ」 (亀井勝一郎)

人生論・幸福論
配信元:電子書店パピレス
提供:@niftyコンテンツ

随分前に書かれた作家の評論ですが、いまでも十分当てはまる内容ではないでしょうか。娯楽感覚が麻痺していくことは、自覚していると否とに拘らず、私たちは客観的に理解していることではないでしょうか。娯楽は私たちの要求に負けないように進歩していきます。したがって、上記内容がいつも新鮮に感じられるのでしょうね。足るを知るということが、大切ですね。

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「出家とその弟子」倉田百三より

「も少し素直になってくれたらな。人にも自らにも反抗的になっている。罰を受けたいというのは甘えている。地獄の火の恐ろしさを侮っている。指一本焼ける肉体的苦痛でもとても耐えられるものではないのだ。彼はまだ失うべきものを失うていないと見える」 (倉田百三) 

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人は、何度か重ねて不幸に出会うと、他人にも自分にも素直になれなくなるものですね。それは、その人の罪とは言えないでしょう。しかし、自暴自棄になって、どんな罰でも受けてやる、などと思ってはいけないと、作家は言います。ちょっと宗教的かもしれませんが、地獄があるとすれば、この世では想像できない肉体的苦痛の連続なのです。今生はその苦痛を学習し、消化するための修行の場なのかもしれません。いかなる壁に直面しても冷静に対処したいものです。

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「侏儒の言葉」 芥川龍之介より

「わたしは第三者を愛する為に夫の目を偸んでいる女にはやはり恋愛を感じないことはない。しかし第三者を愛する為に子供を顧みない女には満身の憎悪を感じている」 (芥川龍之介)

Photo 数年前には「失楽園」や、三島由紀夫も不倫を扱った作品があります。その他、数え上げれば切がないのでしょうね。作品設定として、社会的拘束を恣意的に用いることで、複雑な心理を描写する。そのためには不倫は格好のテーマなのかもしれません。夫を顧みない女ならば、理解できるが、子供を顧みない女には憎悪を覚えると、作家は言います。無邪気な子供を見ると感傷的になるとも言ってますから、対子供においては、人間のエゴを見たくない、作家の崇拝ともいえる気持ちがあったのでしょうね。

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