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2007年12月

カミュ「シジフォスの神話」

「真に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺ということだ。人生は苦しんでも生きるに値するか否かを判断すること、これが哲学の基本的な質問に答えることだ」(カミュ)

Photo 自殺といいますと、ちょっと不穏な言葉ですが、一歩引いて俯瞰で考えてみますと、死の裏返しは、生ですから、自殺というテーマは、すなわち生きる意味を問うことに他なりません。人は何故生きるのか?このテーマなんて熟考したことがなくても、人生は過ぎるのです。しかし、このテーマに直面すると、いやがうえにも新たな苦悩が生まれます。今までの苦悩が解決したかのように思えますが、それは幻想にすぎません。生=苦悩であるとき、人は何故生きるのか。苦悩するためなのか?との終わらない苦悩が沸き出すのです。このような苦悩に気付くことが、そもそも必要なのかも疑問です。すると、哲学は必要なのでしょうか。分からなくなります。

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太宰治「津軽」

「親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった」(太宰治)

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近頃は、陰惨なニュースが多いですね。その中でも、親族間の事件には、心を傷めます。親を大切にする。子を慈しむ。このような情は、学習によって身につけるものではなく、自然の情だと作家は言います。このような動物としての自然の情が、どうして失われていったのでしょうか。文明が、人間が人間でなくなることと同義語ならば、この言葉は、心を喪失した人間が、他人を欺くために創り出した都合のいいアメなのでしょうね。

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ヘッセ「デミアン」より

「肝要なのは任意の運命ではなくて、自己の運命を見出し、それを完全にくじけずに生き抜くことだった。ほかのことはすべて中途半端であり、逃げる試みであり、大衆の理想への退却であり、順応であり、自己の内心に対する不安であった」(ヘッセ)

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自分の運命とは何か?それは自分で見出すべき「真理」に近いような気がします。その真理を追究するには、どのような誹謗中傷も甘んじて受ける覚悟が必要だと思います。それは、現在の政治家の信念を見ていると、あっさり覆されるように思えます。彼らは選挙のたびに大衆の理想へ退却しているように思えます。それは、自身の理想を失った形骸化した姿なのですかね。

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スタンダール「赤と黒」

「教育などを受けると、青年は二十で心のゆとりを失ってしまう。ところが、心のゆとりがなければ、恋愛は往々にしておよそわずらわしい義務にすぎなくなってしまう」(スタンダール)

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恋愛がわずらわしい義務になってしまうのは、淋しいことですね。しかし、恋愛は一種の娯楽といえば、語弊があるでしょうが、そのようなものかもしれません。しかし、それはあくまで恋愛であり、真実の愛はまた別の種類に属するものでしょう。娯楽は、義務となればわずらわしいでしょうが、愛は自然の感情ですから、抑えることはできないのでしょうね。

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鈴木大拙より

「これは花瓶である。しかし、これを花瓶だと見るときに、この花瓶と私との間に、花瓶とはこういうものだという先入観が入り込んでしまっている。それではこの花瓶とわたしがほんとうに一つになっていることとは言えぬ。それでは現実がない。だから、花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が必要なのである」(鈴木大拙)

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これは「禅」独特の視点ですね。ふだん私たちは、物を見て認識し、その用途などを判断するわけですが、この判断には主客が明らかにありますね。主客とは、すなわち、自分と他者を分けて見ることですから、自分が神仏でもない限り、その対象物の本質を見誤ることになりはしないでしょうか。その判断が無くなるということは、自他がなくなることですね。それによって、本質を見極めることが出来るようになるわけです。しかし、このような定義づけそのものさえ、意味を成さないものでしょう。

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司馬遼太郎「ある運命について」より

「正義という多分に剣と血のにおいのする自己貫徹的精神は、善とか善人とべつの世界に属している。筆者などは善人になれなくてもできるだけ無害な存在として生きたいとねがっているが、正義という電球が脳の中に輝いてしまった人間は、極端に殉教者になるか、極端に加害者にならざるをえない。正義の反対概念は邪義であり、邪義を斃(たお)さないかぎりは、自己の正義が成立しようもないからである」(司馬遼太郎)

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正義というと、私は良い言葉にしか捉えてませんでしたが、なるほど作家のおっしゃるように、妄信に近い概念なのですね。新撰組がそれにあたる気がします。当人たちは、正義の御旗の下に尊王攘夷分子を斬ったのでしょうが、どこか今の私たちには、違和感があります。そんな時代があったからこそ、今の日本があるのでしょうか。新しい時代は、命を失ってこそ得るものなのでしょうか。ときどき、分からなくなります。

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石川淳「模倣の効用」より

「ヒョウセツが悪徳だというのは、じつにこれ愚劣だからだよ。しかし芸術上の方法についていえば、厳密には方法を盗むということはまあできない相談だね。作者みずから意識しないような方法を、他人が意識的に盗むとはどういうことか。いや、どういうことでもない、単に無意味だよ。」(石川淳)

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たしか、石川氏がおっしゃるには、芸術は精神が創り上げるものだから、ヒョウセツするといっても、原作の精神までは盗むことはできないので、その技術上のことに過ぎない、との趣旨だったろうと思います。芸術は精神の赴くまま、その精神によって方法が形作られるとすれば、たしかに方法を真似ることは、無理でしょう。私たちが、いくら他人の気持ちを慮って、その感動を共有できたとしても、その他人ではありませんから、あくまでも近似値に過ぎません。高い精神性をもった芸術ほど、その方法のヒョウセツは無意味なのでしょうね。

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チェーホフ「ともしび」より

「君を説得することなんぞ、できるもんか!一つの信念に達するには、君は自分自身の体験と苦しみによるほかないんだよ。」(チェーホフ)

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自分は、他人を救うことができるとか、他人の信念を曲げさせることが出来るとか、自惚れてみたいものです。たしかに、他人は、「わかりました。ありがとうございます」と、返事をしてくれるかもしれません。しかし、これは、あなたの気持ちは分かりました。これからあなたに会うときは、そのような人だと、思うことにします。という処世的な返事ではないでしょうか。横綱の朝青龍が、高砂親方とのコミュニケーション不足を指摘されていました。高砂親方は、朝青龍に対し、上記作家の言葉を投げかけたいところでしょう。また逆に、朝青龍にとっても親方に対して、上記の言葉を返したいかもしれません。やっぱり、コミュニケーション不足は、解消しそうもないですね。

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司馬遼太郎「人間というもの」より2

「仕事というものは、全部をやってはいけない。八分まででいい。八分までが困難の道である。あとの二分はたれでも出来る。その二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまう。それでなければ大事業というものはできない」(司馬遼太郎「竜馬がゆく」八)

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言わずと知れた作家の代表作ですね。竜馬がゆくを読んで、心を熱くした若者は多いことでしょう。また、壮年・老年の方でも、いらっしゃるでしょう。ふと自分が竜馬が暗殺された年齢を越えていると、気づいたとき、男は何となく一瞬だけ淋しい思いを抱きます。しかし、青春と情熱は年齢を問わない、と自分を励ますとき、世の中の価値観・人生観・常識に捉われていては、これから先も覚束ないと感じます。いつまでも坂本竜馬でなくてもよい。しかし、どこかで坂本竜馬であるべきだ、と肝に銘じています。八分までの困難。確かにそうかもしれませんね。でも画龍点睛を欠くともいいます。最後まで、手を抜かないのも必要ですね。

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