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ホフマン「廃屋」より

「エーベルハルトの『類義語論』にも書いてあるが、理性によって根拠づけられない認識や欲望のあらわれをひっくるめて≪奇妙な≫などと言うのに対して≪不思議な≫というのは、自然のよく知られた力を超えるものなんだ。」(ホフマン)

3241420 ドアノブが付いたドアを見た場合、私たちは、そのドアがどのようにしたら開くと認識するでしょうか。きっと、押すか引くかすることでしょうね。それは過去の経験から当然と思っている。実はそれが、引戸だとしたら、どのように感じるでしょう。変なドアだな、と思いますね。しかし、ドアには、押す引く、横へ滑らすとの可能性を知っていますから、ホフマンのいう理性によって根拠づけられないこと、とまではいきませんね。朝、右足から靴を履くと、好い事があるが、左からだと、災難に見舞われる、これはどうでしょう。これは、どうやら「奇妙な」ことといえませんか。理性では根拠づけられませんよね。また、真理かどうかも分かりませんね。では、「不思議な」とはどのようなことを、いうのでしょう。私たちは、こうなれば、こうなる、との法則をもっています。これは、経験ではない、真理です。つまり、野球でピッチャーが球を投げると、前へ進む。これは、自然の法則、真理ですね。異論の余地はありません。この球が、大ピンチの時だけ、ホームベース前で止まり、相手バッターが空振りすると、これは、「不思議な」といえないでしょうか。自然のよく知られた力を超えている。このようなことが、実際起こるでしょうか。この領域で、遊べるのが、芸術であるような気がします。芸術に私たちはいつも、「不思議な」現象を見せられ、感動するのですね。

          

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