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2007年11月

孔子「論語」より

邦道(くにみち)あれば穀(こく)す

邦道なきに穀するは恥なり (孔子「論語」憲問十四より)

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国がしっかりしているときは、仕官して活躍するのは望ましい、しかし、間違った方向に進んでいると思われるのに、平気で官途についているのは、恥ずべきことだ(中国名訓辞典)との意味だそうです。政官業の癒着の構造は、今に始まったことではありません。しかし、わかっていても続くこの体質は、人が飯を食べることと同じなのでしょうか。民業は、己の会社の繁栄のみを望み、親しく、又はなれなれしく、そして作り笑いで、政官に近づき、政治家は、神輿の上にのって、ご満悦。そんな権力先生を蔑みながら、官僚は身を潜めて、天下っては、退職金を膨らませる。邦道なきに穀するは恥なり、など理解できても、しないのでしょうね。上記の言葉は、隠棲していた原憲が語った言葉だそうですが、その言葉を聞いた時代の寵児である子貢は、自分を恥じたのだそうです。「恥」今では珍しい概念かも知れませんね。

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ホフマン「廃屋」より

「エーベルハルトの『類義語論』にも書いてあるが、理性によって根拠づけられない認識や欲望のあらわれをひっくるめて≪奇妙な≫などと言うのに対して≪不思議な≫というのは、自然のよく知られた力を超えるものなんだ。」(ホフマン)

3241420 ドアノブが付いたドアを見た場合、私たちは、そのドアがどのようにしたら開くと認識するでしょうか。きっと、押すか引くかすることでしょうね。それは過去の経験から当然と思っている。実はそれが、引戸だとしたら、どのように感じるでしょう。変なドアだな、と思いますね。しかし、ドアには、押す引く、横へ滑らすとの可能性を知っていますから、ホフマンのいう理性によって根拠づけられないこと、とまではいきませんね。朝、右足から靴を履くと、好い事があるが、左からだと、災難に見舞われる、これはどうでしょう。これは、どうやら「奇妙な」ことといえませんか。理性では根拠づけられませんよね。また、真理かどうかも分かりませんね。では、「不思議な」とはどのようなことを、いうのでしょう。私たちは、こうなれば、こうなる、との法則をもっています。これは、経験ではない、真理です。つまり、野球でピッチャーが球を投げると、前へ進む。これは、自然の法則、真理ですね。異論の余地はありません。この球が、大ピンチの時だけ、ホームベース前で止まり、相手バッターが空振りすると、これは、「不思議な」といえないでしょうか。自然のよく知られた力を超えている。このようなことが、実際起こるでしょうか。この領域で、遊べるのが、芸術であるような気がします。芸術に私たちはいつも、「不思議な」現象を見せられ、感動するのですね。

          

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司馬遼太郎「人間というもの」より

「ある人物をひとに観察させるとき、よほどの器量の者にそれを見せなければ印象をあやまる。」(司馬遼太郎「夏草の賦 上」)

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私たちは第一印象で、その人の性格を判断したりします。また会社においては、人事考課で数人の上司が社員を評価するでしょう。人を評価する。これほど難しいことはないと思いませんか?評価者の主観が多分に加味され、真に客観的であることは、その評価者の器量によるでしょう。作家の上記の一節は、評価者への戒めとして、肝に銘じるべき言葉といえますね。

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吉行淳之介「私の文学放浪」より

「芸術家が金持ちになってそのために堕落してゆくテーマの小説がときどきあるが、金があることによって毒される程度の精神では、金のないことによってもっと甚しく毒されるであろう。」(吉行淳之介)

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この本には随分影響を受けました。人間のしなやかな強さを学ばせて頂きました。その精神の一旦が、上記の一節に表れている気がします。金満家が堕落すると、世間はその堕落を、妬みの交じった黒い心で嘲笑したりします。金の苦労を知らないから・・・などとしたり顔で批評したりします。しかし、果たしてそうなのでしょうか。金を言訳にしてるんじゃないでしょうか。吉行氏はそこのところを、的確に表現してくれてる気がするのです。人は金のみを動機に何かを頑張れるほど単純ではないと思います。一部の人を除いて・・・。そこが、難しいところなのでしょうね。                        

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モーム「月と6ペンス」より

「しかし一つだけ、私にはっきりとしめしたことがあった。つまり、人々は美について軽々しく語り、言語感が欠けているものだから、美という言葉を不用意に使い、そのために、その力を無としてしまっている。そして、その言葉が表すものは、無数のくだらぬものとその名を共有して、すっかり威厳を失ってしまっている。人々は、衣服、犬、説教を、美しいと呼ぶが、「美」そのものと顔をつき合わせると、それを認知できないのである。なんの価値もない思念を飾り立てようとする空虚な強調が、彼らの感受性をにぶらせるのだ。だがたまさか感じた霊力を贋造する山師のように、濫用したために、その力をなくしてしまうのだ。ストルーフェは、始末のわるい道化ではあったが、美にたいしては、誠実でまっすぐな彼自身の魂そのもののように、誠実でまっすぐな愛情と理解とを持っていた。美が彼に意味するものは、神が信者に意味するものと同じであって、美を見ると彼は畏怖したのだ。」(サマセット・モーム)

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この小説は、ゴーギャンをモデルにしたと聞きます。上記文章のストルーフェは、ゴーギャンのことだろうと思います。小説家は、主人公初め、登場人物に自身の思想を語らせるのが常ですから、ストルーフェの言葉は、同時にモームの思想でもあるのでしょう。「美」とは、何か。私たちは言葉の中身を深く意識せずに、その外側で使用し、陳腐化させます。しかし、大切なのは中身を認識して使用することだろうと思います。花を見て、美しいと思う、その美と、仏教建築を見て素晴らしいと感じる、その美。そこには、同じ感嘆があります。熟考してみてください。その美そのものに感嘆したのか、その奥にある歴史に感嘆したのか。何も間違いは、ありません。ただ、じっくり自分の感想を味わうのもいいじゃありませんか。

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井伏鱒二「荻窪風土記」について

夏目漱石や、芥川龍之介や、太宰治やらの文章に慣らされていた時分、井伏鱒二の作品を読みにくいと、感じました。その感じは、無味乾燥な文章だという思いに近いのです。決して今が優れているとは言いいませんが、まだ読者として未熟だったと近頃気づかされます。井伏氏の作品は、まちがっても無味乾燥などではなく、気取った形容詞を排し、事実を事実として伝える透明感があるのです。それでいて、行間に井伏氏の伝えたい情念が、ゆらゆらと漂って、そのほのかな感性に操られ、私たちは、知らぬ間に井伏氏の導く方向へ動かされているのです。            

「荻窪の天沼八幡様前に、長谷川弥次郎という鳶の長老がいる。」で荻窪風土記は始まります。その人と、井伏氏は最近知り合いになり、弥次郎さんからの、談話を紹介します。「弥次郎さんの話では、関東大震災前には、品川の岸壁を出る汽船の汽笛が荻窪まで聞こえていた。ボォーッ・・・と遠音で聞え、木精は抜きで、ボォーッ・・・とまた二つ目が聞えていた。」これから関東大震災の状況を伝えていく、その書出しです。長閑な書出しですね。だから、よほど、震災の恐ろしさが、伝わると思いませんか。嵐の前の静けさですね。だからといって、井伏氏の文章は情緒的ではないのです。腹が立つことがあった日の夜、ためしに日記を書いて見てください。必ず情緒に文章は引きずられて、みっともなく、だらしなく、みすぼらしい、見るに耐えない、女々しい文章になっているはずです。それが普通なのです。しかし、井伏氏は違うのです。それを、理解したうえで、読み進めると、勉強になります。

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坂口安吾「堕落論」より

31984506 「日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母体によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか。(中略)終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、みずからの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由ではあり得ない。なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。(中略)人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な道はない。戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」(坂口安吾)

価値観とは、いかにも漠然として、相対的で、曖昧で、身勝手なものですよね。日本の価値観も、あの敗戦を境に変わったのではないでしょうか。坂口氏は人間は堕落するとします。それは、逆説的ではありますが、自己肯定とも、慰めとも、激励ともいえます。昨日まで信じ切っていた正義が、次の日まるっきり逆になっていたらどうでしょう。おそらく、人は自己嫌悪に陥り、自分を責めるでしょう。しかし、人間は本来弱く脆いものだと思えば、励ましになりませんか。それが、きっと坂口氏のおっしゃる「堕ちる」ではないでしょうか。堕落してはいけません。そう私たちは教えられます。それは何故か。人間は、実に弱く、堕落し易いものだから、何度も戒められるのだと思います。

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開高健「開口閉口」より

「医と信にかけたピューリタン魂が随所に跳躍するが、いたわり、思いやり、無邪気、ユーモア、いきいきとした知的好奇心などに接していると、医は仁術であって算術ではないと、よくわかるのである。つまりここでは初心が生きているらしいのである。病院からそれをぬいたらあとはメスと薬瓶とレントゲン機械があるだけ」(開高健 麦茶を飲んで讃美歌を)

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近頃は、医は仁術などという、姿勢を正した言葉を吐くことが、恥ずかしくもありますね。しかし、患者の気持ちは、時代を越えて変わることなく、医者の袖を掴んで何度でも自分の病状を確認したいものです。そんなとき、医者の言葉や態度が、どれだけ患者を励ますでしょう。開高氏の言葉に、その思いが込められていますね。

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吉行淳之介「原色の街」より

「気に入るということは、愛することとは別のことである。気に入るということは、はるかに微温的なことだ。愛することは、この世の中に自分の分身を一つ持つことだ。それは、自分自身にたいしてのさまざまな顧慮が、倍になることでもある。そこに愛情の鮮烈さもあるのだが、彼はわずらわしさが倍になることとして、そこから故意に身を遠ざけていた。それは彼が怠惰なためでもあり、又、感じ易すぎる自分自身にたいして疲れているためでもあった。」(吉行淳之介)

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愛と恋の違いについてと、言い切ってしまっては、吉行氏に申し訳ない気もするのですが、現在では、この両方の違いをTVやなにかで聞くことがあると、思います。愛は自分が二人になる。つまり、愛する相手も自分自身のように思い遣るということでしょう。私は、その後の、吉行氏の感性を、芸術家らしく思います。愛を遠ざける理由を、主人公の怠惰とし、又感じ易すぎて疲れるからとする。その主人公はもちろん作家そのものなのでしょう。その風にも震えるような繊細で張り詰めた神経が、作家の文体を独特の匂いが漂い、色合いのあるものにしたのでしょうね。

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安部公房「砂の女」より

「(前略)自分が何者であるかに、目覚めさせてやるだけでも、立派な創造じゃありませんか?」

「おかげで、新しい苦痛を味わうための、新しい感覚を、むりやり身につけさせられる」

(安部公房)

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自分が何者か?なんて知りたくもないですよね。しかし、芸術や哲学などの学問によって、そういった自己分析に目覚めることはあります。たしかに、それに目覚めさせた側は、創造でしょうけれど、自己分析は、すなわち、安部氏のおっしゃる、新しい苦痛ですから、困りものですね。自己分析はほどほどに。

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ヘミングウェイ「ぼくの父」より

「この世の中って、せっかく本気で何かをはじめても、結局、何もあとには残らないみたいだ」(ヘミングウェイ)

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人は自分が不幸なときには、運命とやらを真剣に考えたりしますね。運命のせいにしさえする。また、運命を思わなくても、自分の意図しないところで成功したりもしますね。人は、自分の意志によって、目指した目的に到達したとき、初めて幸福を感じるのかもしれません。自分の意志の向く方向から逸れたとき、他人から見ると幸福でも、本人は意外に欲求不満だったりするものです。ヘミングウェイの言葉は、そんな人間のくすぶる不満を表現しているように思えます。

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夏目漱石「行人」より

「兄さんは碁を打つことは固より、何をするのも厭だったのだそうです。同時に何かしなくてはいられなかったのだそうです。この矛盾が既に兄さんには苦痛なのでした。」(夏目漱石)

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夏目漱石は、この文章の中で、「嫌」という字を使わず、「厭」を使っています。どことなく人生に疲れ、内省的で、自己嫌悪に陥っている感じが、でていますね。生きることに倦み疲れながらも、何かしなければならない、という焦燥感は、誰しもどこかに潜んでいる気がします。

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トルストイ「戦争と平和」より

「時間の一定の条件の中でおこなわれ、幾多の生命のない機械を動かすのが一つの意志ではなく、すべてが雑多な恣意の無数の衝突から生まれる戦争・・・」(トルストイ)

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現在も世界各地で、戦争が起こっています。私たちは幸い戦争のない現在の日本に生まれました。しかし、この日本でさえ60数年前には大きな戦争の渦中にあったのです。人間には、意思があり、感情があり、肉体があります。為政者の意志一つで、国民が機械になって、戦うのではない。戦争当事国の細胞組織となって、勝手気ままに、ただ、相手国を打ち負かすことのみを目的として、人間として無謀に振舞うのが戦争だと、トルストイは指摘します。

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「地下街の人々」ケルアックより

「男ってクレイジーね。みんなエッセンスを欲しがるわ。女がそのエッセンスなの。それが手のなかにあるのにみんな大袈裟な抽象的なものをこしらえようとして向こう見ずなことをするのよ。」(ケルアック)

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男は、夢ばかりみる動物かもしれませんね。現実に必要なことは、十分理解しているのに、やはり理想の方を向いている。女は、それがじれったくて、情けなくて、あきれるのでしょう。それが、ケルアックの言う、大袈裟な抽象的なものをこしらえる作業ではないでしょうか。そして、その夢のために、時として、人生をかけたりする。男は愚かかもしれませんね。だからこそ、愛すべき動物なのです。

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「沈黙」遠藤周作より

「罪は、普通考えられるように、盗んだり、嘘言をついたるすることではなかった。罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。」(遠藤周作)

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私たちが罪という言葉を用いるとき、おそらく犯罪を思い描いていますね。しかし、狐狸庵先生の仰る罪は、内面の罪、心の罪とでもいいますか、目に見えない罪ですね。たとえば人を疵付けてしまう場合、悪意をもって積極的に誹謗中傷するときと、完全に無関心であるときとが、あるように思います。もちろん、どちらも、被害者側にとっては、辛い経験ですが、誹謗中傷には、疵付ける側に相手を疵付けるという認識があります。しかし、無関心であることは、疵付ける側に認識がない分だけ、繊細な問題のように思えます。知らぬ間に相手が怒っていたという経験を、多かれ少なかれ、誰しももっていると思います。ある人とのわずかな時間の出会いでさえ、私たちはお互い、痕跡を残し合っているんでしょう。その痕跡を記憶の小さな滲みでもいいですから、認識しておきたいものです。それが、優しさであり、思いやりなのだと思います。

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「原色の街」吉行淳之介より

「人は、追いこまれた立場から脱け出ることも考えるが、又その立場を意味づけることも考えるものだ」 (吉行淳之介)

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私は、若い時分、吉行氏の作品に勇気づけられたことが、随分あります。氏の作品には「性」を扱ったものが多いですが、氏の言葉の中にふと、氏のダンディズムが顔を覗かせ、それが、何とも、さりげなく自然で懐の深さを感じさせるのです。上記の言葉もそうだと思います。「追いこまれた立場を意味づける」これは一体どういうことでしょうか。私たちは、不幸に見舞われると、つい他人のせいにしがちです。しかし、その現況をよくよく省みてみると、自分にも落ち度があったり、相手の言い分が理解できたりして、結果が好転することもよくあることです。そのことを、氏は実にあっさりと、仰るものだと感心します。

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つぶやかして、いただきます2

 遠くに霞む山々は、

 どこまでも、静かで、泰然として、優しい

 心の傷が癒えた。

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つぶやかして、いただきます1

 青く、深い空が、広がっている。

 それを、

 しばらく見上げていた。

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「斜陽」太宰治著より

「僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だと噂した。僕が、なまけもののふりをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。僕が小説を書けないふりをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が嘘つきのふりをしたら、人々は僕を、嘘つきだと噂した。僕が金持ちのふりをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども、僕がほんとうに苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しいふりを装っていると噂した。」(「斜陽」太宰治)

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人はお互い、良い誤解か悪い誤解かに尽きると、いう人もいます。人の心情をはかることは大変難しいですね。できれば、良い誤解をしたいし、良い誤解をされたいものです。理想は、真に相手の心情が分かれば一番よいのですが。

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「愛の無常について」(亀井勝一郎著)

「解決しがたい問題の、解決しがたいゆえんが、骨身に徹してわかり、自己の非力と空しさが痛感されたとき、人は絶望します。(中略)自己に絶望し、自己を否定しながら、第二の自己を形成して行く。絶望とは、「生れ変る」ための陣痛に他なりません。」(亀井勝一郎)

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人生において、人は絶望することがあります。それは、亀井氏が仰るように自分の非力と空しさを痛感したときだと思います。現代は、年金、労働、医療、犯罪等さまざまな、不安に包まれております。それを解決してくれるはずの政治でさえ、不安をもたれます。私たちは何を信じ拠所とすべきでしょうか。大切なのは、やはり自分自身を信じ切れるか。そんな気がします。絶望すれば第二の自己を形成して行く。私たちは、芥川龍之介の「杜子春」の仙人になるための修行のように、たくさんの他者からの意見にさらされています。そんなとき、私を守るのは、私しかない、と言い聞かせ、この不安な世の中を乗り切り、より良いものへと変えていきたいものです。

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亀井勝一郎の言葉

亀井勝一郎の「愛の無常について」より

「世のいわゆる大人は、必ず自己の体験に優越感をもっています。しかし体験とは何か。この世に順応して行くかぎり、誰しも体験はもつが、それはきわめて狭い範囲の、受動的な蓄積物にすぎず、そのかぎりでは動物的なものにすぎませぬ。この体験に思索を加え、その意味をさぐり、形成し、変様することによって、はじめて人間的体験というものが成立するのです。この力がなければ、大人とは単に傲慢な子供にすぎますまい。」(亀井勝一郎)

一体いくつから大人というのでしょうか。私たちは知らぬ間に年齢を重ね、大人と呼ばれる時を迎えます。しかし、それは外見だけのことが多くないでしょうか。現在のニュースを見てもそうですね。亀井氏が仰るように経営者は自己の体験に優越感を持っているとしか思えません。さまざまな会社の社長の謝罪会見。彼らの体験は、何も思索や探求がなされないまま、増長し、自分を高く見てしまったところに不幸があるのでしょう。私もそういう意味では、まだ子供だと思います。単に傲慢な子供である大人にならないよう努めましょう。

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